ゲーム脳の話

ブログをみたりしてるとゲーム脳という単語をしばしば見つける。海外に住んでいることもあってゲーム脳とは何かということは全然知らない。ということで自分なりにゲーム脳とは何かを想像しながら何か書いてみる。これが実際にいわれているゲーム脳と違ってたらすみません。あと僕がやるゲームはRPGのみ、しかも古いやつばっかりということなので、最新のゲームとかは全然知りません。以下ゲームというのはそういう意味で。


すごくおおざっぱにいうとゲームにはストーリーの部分とシステムの部分がある。なんか魔王がやってきて世界が危機に瀕しているからそれを救うとかいうのがストーリーの部分で、誰を仲間にできて、どういう職業につけて、装備はどうなっているか、どういう戦闘方法か、っていうのがシステムにあたる部分かな。もちろん両者がはっきり区別されることはない、仲間にできる人がストーリーに深く関係していることもあるでしょう。


たとえばドラクエ2からドラクエ3への変化というのは、後者のシステムの部分の充実ということなんじゃないでしょうか。ドラクエ2では仲間にできる人というのがストーリーに完全に依存しているのに対し、3では仲間はいてもいなくてもいい。つまりシステム上そういうことが可能なだけで、ストーリーとは全く関係ない。そういうストーリーと関係ないものとして職業というものも発明された。後にダーマの神殿なんかがストーリーにかかわってくることにもなるが、それはシステムのストーリーに対する浸食だと考えることができると思う。

ストーリーというのは、少なくともゲームにおいては、目的合理性にしたがって進んでいると思う。もちろんゲーム開始時に主人公がどういう状況にあるかわかってない場合もあるけど、結果的には「こうだからこうだった」というような合理性によって説明がつくと思う。それに対して、システムの部分というのは、ストーリーの観点からしたら無駄以外の何ものでもない。まして井沢のように終わったドラクエのレヴェルをあげるのなんか全く意味がない。


だけどシステムという観点からすればそれは無意味というわけではないと思う。ストーリーにおいて目的はある終着点に到達することだが、システムにおいて目的があるとすれば、それは網羅であると思う。レヴェルが99まであれば、レヴェル99まであげてみる、職業がこれだけあればすべての職業を経験してみる、どれだけ低レヴェルでクリアできるか試してみる。もはやゴールにたどり着くことが問題ではなくて、いかにゴールにたどりつくか、この「いかに」が重要であって、場合によってはゴールにたどり着く必要はない。


こういう思考をする脳をゲーム脳という。ストーリーをたどるという目的合理性に支配された脳に対して、システムを網羅しながら検証していくという思考ということだろうか。こういう思考の対立が最もはっきりと現れるのがRPGなのだと思う。で、これは全くの印象というかあんまりやってもいないので想像なのだが、この思考の対立はプレステと任天堂系のコンソールの対立と重ね合わされるのかなと思う。ストーリー的な思考でもし感情移入が問題となるならば、それはグラフィックなどの質の向上が求められるが、ゲーム脳においてはそれは必要ない。作り手からしてみれば、このゲーム脳という思考のあり方は少ない容量で面白くするためのある種の苦肉の策かもしれない。あと、これは容量とは関係ないかもしれないが、携帯ゲームの場合はストーリー的には短くて、システム面にかなり力を注いでいるということが多いような気がする。キャラバンハートとか二回のエンディングをみたあとの方が長くプレイしている。


そして、これまた妄想なのだが、この二つの思考の対立は、ジャンプマンガでいうところの、ワンピースとハンター×ハンターの対立と重なり合うと思う。ワンピにおいては世界一の海賊になるとか、財宝を見つけるとかいったはっきりとした目標があり、そこに向かって比較的寄り道なく進んでいるのに対し、ハンタの場合は父親を捜すという目的が一応あるにしても、あんまりそれに向かって突き進んでいるという感じがしない。それよりも念というものがどのように成り立っているか、それをどのように利用できるかということを主人公自身が知るということの方が重要なんだと思う。非常にゲーム脳的だ。だからGIとかやるんだと思う。思えばジャンプマンガというのは戦闘マンガにここでいうゲーム脳的な要素を混ぜ合わせてきたのだと思う。


というわけで私のゲーム脳の話でした。

ここに何も書かないということは堕落してないということ…なはずだったが、やっぱり堕落していた。何もしておらん。というわけでその間に見たものなどを。


ターミナル、監督:スティーヴン・スピルバーグ
宇宙戦争、監督:スティーヴン・スピルバーグ

よく考えたらスピルバーグの映画を見るのはこれが初めてかもしれない。別に選んでこの二つを見たのではなく、たまたま。ターミナルは、なんか実際にあった話をもとにしたということ、あと、宇宙戦争はむかし松下奈緒が「宇宙戦争ってなんだ?」とかいってたことぐらいしか知らない。なんか正直あまり面白くなかった。でも二つ続けてみて思ったのは、僕は関係が崩壊していく過程を描いたものよりも関係が成立する過程を描いたものの方が好きだということだ。


チャーリーとチョコレート工場、監督:ティム・バートン

しばしば顔の下半分が見切れているのが気になった。つくづく自分の涙は安いなあと感じた。


Scoop、監督:ウッディ・アレン

これはまだ日本ではやってないだろうか。前回の『マッチポイント』では本人はでていなかったが、今回はかなりおいしい役に。まあいつもおいしい役だが。やっぱりウッディ・アレンは自分で芝居をした方がいいと思う。前作よりも好きだ。しかし日常生活で「Eureka !」という人を映画の中とはいえ初めて見た。


Babel、監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

今年のカンヌの監督賞をとった作品。久しぶりに役所広司を拝みたくて見たが、ほとんどでてなかった。これだったら菊地凛子を先にクレジットするべきだと思うが、いかがだろうか。なんか「三つの場所での出来事が複雑に絡み合う」ということだったが、そんなに複雑に絡み合ってない。別に日本の話いらないんじゃないか? あと全然関係ないけど、日本のシーンの中で、ニュース番組が放送されているところがあったのだが、MXTVだった。普通日本の映画だとだいたい架空の放送局をでっち上げると思うのだが、別にいいのだろうか。山田優ジンジャーエールを飲んでるCMも流れていた。

こちら:
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20060824/p1

例のネコ殺しの話というよりも、id:shinimaiさんのエントリが興味深かったのでそれについて。倫理学とかについて全く知識がないので、単純に疑問に思ったことがあるので、とりあえず書いてみる。

ここでは坂東眞砂子にたいするあり得る批判を二点にまとめているが、どうやら重要っぽいのは第一点目、つまり、

現代の功利主義的道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。

というところでしょう。まず何よりもわからないのは、例の日経の記事からどうしてこういう批判が導きだされるのかが実はちょっとよくわからない。ネコを殺すこととネコを殺したと書くことは違うのではないかというのがまず感じた印象です。僕はあの記事を読んだとき、ああこれはたたかれるだろうなあと思いましたが(というかたたかれているという事実を知ったあとに読んだので当たり前なんですが)正直言ってけしからんとはあまり思いませんでした。それは何かを行うこととそれを報告することは別のことだからだと思っているからです。つまりあの記事からそもそもid:shinimaiさんが示した批判を提起しうるのかというのがまずある疑問。

それで次に思うのは、何が悪いのか、ということ。つまり、ネコを殺すのが悪い、ということと、ネコを殺したと書くのが悪いということは違うだろうということ。これは読み手の想像力の問題になるのでしょうが、少なくとも僕はあの記事を読んで彼女はネコを殺したんだと、「不快感を感じるまでリアルに」想像できませんでした。たぶん実際に日経の紙面でコラムとして読むとまた違うのかもしれません。だから、そう書くのが悪いというのなら何となくわかる。でもたぶん多くの人が「ネコを殺しちゃいかん」と思ってブログなどでそう書いているような気がするんですね。ネコ殺しを表明すること自体が問題だ、と言ったのはきっこの日記のきっこぐらいなのではないでしょうか。いや、べつにたいしてチェックしているわけじゃないので、ほかにもいるでしょうが、id:shinimaiさんは少なくともそう考えてないですよね。まあ文学畑出身特有のへ理屈なのかもしれませんが、あの記事からネコを殺すことへの倫理的な批判ができるとすれば、それはPhilippe Lejeune的な自伝契約があらかじめなければいけないのではないでしょうか。まあもちろん日経新聞のコラムであるということは既にそういう契約をしたということなのかもしれませんが。まあ新聞ということを考えれば社会的にはそういう契約をしたということになるんだろうな。

ということで、ネコ殺しの善し悪しに関してはあまり興味がないのですが、それを表明することがどうなのかということについてはちょっと気になります。で、そのへんに関してid:shinimaiさんはどう考えているのかなというのがもうひとつ思ったこと。たぶんネコを殺したことを書くことが無条件で悪いということは言えないような気がするんです。いろいろな文脈があるわけだし。言い方をかえれば功利計算が異なってくるということになるのでしょうか。ちょっと考えられるのは、こういうように書くことがネコ殺しなりひいては殺人を教唆することになるからいかん、ということはできるのかもしれないなとは思います。もしそうだとしたら、功利主義的にどう説明するのでしょうか。

で、書きながら思ったのですが、倫理学ってアプリオリな善(善のアプリオリ?)を問う学問じゃないかなあという印象があるのですが、教唆ということはそういう観点からちょっとわからないのではないかなあという気がするんです。教唆って結果としての出来事がまずなければいけなくて、そこから遡及的にああ教唆があったんだとしかいえないのではないかと思うからです。つまり、このように事後的な要素が重要な場合に功利計算ってできるのでしょうか。

ああ、あとそういうのを読むだけで不快だから書くべきではない、という考え方もあるのか。でもその場合本当に当該のコラムの筆者が悪いのかということにならないのだろうか。つまり、書いた本人よりも、ネットで焚き付けて広めた人の方が悪いということにはならないのだろうか。

いずれにせよ、(ネコ殺しという事実は別にして)ネコ殺しについて書くな、という考えにはちょっと違和感を感じる。もちろんそれが悪い「影響」を及ぼす場合があるだろう。だけどそれはどうやって説明するんだろう。なんかまとまりがありませんが、思ったことでした。

伊藤剛さん(id:goito-mineral)経由で:
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060822k0000e040061000c.html

記事の内容にちょっとよくわからないところがあった。用は冥王星を従来の惑星のカテゴリーとは別にほかの小惑星といっしょの「矮惑星」とやらに分類するというものみたいなのだが、この部分:

冥王星と周辺の矮惑星の名称は、当初「プルートン」とする案が提示されたが、「言語学的におかしい」「深成岩を示す地質学用語と混同される可能性がある」などの指摘が相次いだため、22日の討議で意見を集約することになった。


カギ括弧の中の二つの指摘がわからなかった。言語学的におかしいってどういうこと? というわけでちょっとだけ調べてみる。

プルートンってPlutonってことですよね。ということは「冥王星」と「冥王星族」の名称は区別されないということなのかしら…、と思っていたら、英語で冥王星Plutoというらしいから、もしかしてPlutoとPlutonをそれぞれ冥王星冥王星族に割り当てるということなのかしら。それなら言語学的におかしいということもわからなくはない。両者は同じだから。ちなみにフランス語では冥王星はPlutonだ。この単語を覚えていたので意味が分からなかった。だからフランス語では冥王星と地質学用語は同じ単語で示す。要は最初から混同されている。伊藤さんはメジャーな学問分野がマイナーなそれを蹂躙すると言っているけど、Plutonという言葉だって別にもともと天文学の用語じゃないし、ギリシア(というかこの場合ローマか)神話というのはだいたい新しい学問の用語として使われるからまあそういうことなんだろう。しかし何で新しい用語を作ることなく、神話から引っ張ってきたりするのだろうか。日本語になると全部個別に翻訳されるからバラバラの用語になるけど。ただ単に神話が好きということなのかしら。まあ天文学の場合はむかしから惑星には神話の神が充てられていて、冥王星とか海王星とかはたぶんあとからつけられたのだろうけど。しかし冥王星とか海王星って翻訳はすごいな。ハデスだから冥王、ポセイドンだから海王か。

しかしもし事態が本当にPlutoとPlutonを冥王星冥王星族に割り当てるということだったら、ちょっとすごいな。その英語中心主義が。するとフランス語だと冥王星がPlutonだから冥王星族はPlutoになるのだろうか。かなり混乱する。あと、議論しているのは学者さんたちですよね、その人たちはPlutoもPlutonも同じローマ神話の神を指しているということを知らないんでしょうか。知らないわけないと思うんだけど、でもちょっと疑ってしまう。そんなことよりも、やっぱり冥王星を含む星の集まりなんだから、冥王星族なんていわないで冥界とかいってほしい。フランス語ではEnfers、英語ではなんていうんだろう。普通にハデスなのかな。なんかかっこいいと思う。

はじめてトラックバック頂きました、ありがとうございます。なんか運動の動員のためのコンセンサスの問題からかなり離れちゃってます。すみません。

僕がid:chidarinnさんのブログを見たときに一番興味を引かれたのは、プロフィールのところなんですね。「さよなら、 強者の理論。」というところ。これを見たとき、まず第一に思ったことは、誰が強者で誰が弱者なんてどうやってわかるんだろうということでした。これは僕自身がそういうことをわかる必要がないもしかしたら強者の立場にいるからなのかな、という反省を与えてくれたわけです。まあいずれにしてもプロフィールにこうあるから、id:chidarinnさんはどうやって強者の理論と決別しているのかなということを中心に考えるわけです。僕は相手に対する想像力を持っていないので、もしかしたら「強者の理論」というものがどういうものなのかということについて以前語られていたかもしれませんが、それを読んでいないので、今回の一件のテクストを読みながら何がid:chidarinnさんにとって(そして僕にとって)なにが強者なのかということについて考えてみようとしました。僕が考えるのは、こういうことです。おそらくア・プリオリには強者の理論というものは、ない、同時にア・プリオリには強者というものもいない。理論が強者のものか弱者のものかというのは、それが(発話を含めたあらゆる行為としての)実践に移されたときにはじめて決まると思います。同様に誰でも強者になれるし弱者にもなれる。まあある意味当たり前なのかもしれませんが、強者とか弱者って微視的な関係性に表れるものなのだと思います。そして、おそらくこれはずっと前から言われているでしょうが、フェミニズム理論でさえ強者の理論になりうるでしょう。

今回の話はうつ病が問題になっているため、つまりその患者が問題になっているため、それについて語る人は容易に強者の理論をふるう人になってしまうだろうと思います。なぜかということを僕なりに考えるに、それは視線が違うからだと思います。患者は医者に何かを訴えます。したがって医者を見る。しかし医者は必ずしも患者を(診るけど)見る必要はない。それは自覚症状を考慮に入れる必要がない場合があるからです。今回の件についても視線の違いを感じました。すごく単純化すると(というのは関係性は多元的に決定されるでしょうから)id:farceurさんはid:chidarinnさんの「間違い」を指摘しました。だからid:farceurさんはid:chidarinnさんを見るでしょう。しかしid:chidarinnさんはもともとうつ病をもって社会を見たいのだから、id:farceurさんを見る必要はありません。これは当然のことであるばかりか、むしろ必要なことでしょう。さっきの医者のはなしにしても、もちろんそういう関係性を生み出す構造を問題化することにはもしかしたら意味があるのかもしれませんが、しかしそのことに対して個々の医者は全然悪くない。当たり前です。そんなこと言ったら医療なんかできません。こういった視線の違いはただあるだけです。しかしとはいえ、どちらかが強者に、どちらかが弱者になってしまうことは、それを両者が望んでいなくても、そしてそれを知らなくてもなってしまう。そしてしばしば、こういう関係に敏感であるのは弱者の方だと思います。

強者か弱者かという区別が微視的な関係性によるものならば、「もっとあなたのお話をきかせてください」とか「議論が必要」だとか言うのはそれを言う人と言われる人にとって等価な意味を持ちません。これに類することはフェミニストたちが最も敏感に感じ取ったことのひとつだと思います。問題なのは人は多くの場合知らないうちに強者になっていくということなのです。id:chidarinnさんならこう言うかもしれません。「誰もが反証可能な状態、誰もが理解できると言われている形で、一般的に「正しい」と思い込まれている科学的な論文を、つまり大量データに基づく数量的な研究や医学的生物学的な「客観的」「事実」をもとにして、自分のビジョンを構築、論文として提示す」るようなひとは知らないうちに誰かを抑圧する、と。僕は「強者の理論」と決別するためにはこの「知らないうちに」になるべく意識的でなければならなく、(少なくとも僕の理解では)誰もが潜在的に強者になりうる以上、なるべく意識的であろうとする意志が一番重要なのだと思います。そしてそのためには、自分の考えていることのへの忠実さよりも、自分の表現することの適切さを重視する必要があると思います。最も厄介なのはこの適切さはしばしば事後的に明らかになったりするということなのですが。しかしこの事後性ゆえに対話が必要なのでしょう。

何か今まで書いてきたことと全然違うことを書きますが、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060729/p1にある「女性のうつ」についての議論を読んでちょっと思った事を…。まあ議論の内容とはあんまり関係ない事かもしれませんが。

全然関係ない話ですが、フランスで何ヶ月か前にCPEという雇用契約の施行に関して大規模なデモがあり、大統領がこれに関する法律を公布したにもかかわらず、このデモのためそれが取り消しになってしまいました。フランスに住んでいて、日本人としてこの出来事はいささかショックでした。というのは、おそらくこれほどの動員は日本では不可能ではないかと思われたからです。この契約は、失業対策として、入社して何年かはいわゆる「お試し期間」としてその社員を雇用側が自由にクビにできるというものでした。何でこれが失業対策かというと、フランスはいったん就職すると雇用側としてはやめさせることがかなり難しく、そのために新たな雇用を作り出すことが難しいからです。そのためお試し期間があればいろんな人をその期間雇用することができ、いろんな人に門戸が開かれるということらしいです。この「いろんな人」とは特に学位をもっていないような人、書類審査(がもしあれば)で真っ先に落とされてしまうような人で、そのような人たちにもチャンスが与えられるということで、失業対策になるだろうということみたいです。ただしこのことは雇用の流動性に繋がる、これがこの雇用契約に反対している人たちの主張でした。しかしこのことは前述の「いろんな人」から見たら、要は流動的になることで既得権益が失われるにすぎず、結局は学歴が高い人がそれによるメリットを享受したいだけだろ、という運動のある種のうさんくささがあるわけです。実は僕はテレビなどで事の顛末を見ながらそのように考えたこともあります。しかしテレビなどで発表された世論調査によると、六割だか七割だかがこの雇用契約に反対しています。http://www.mext.go.jp/b_menu//houdou/16/01/04011901.htmによればフランスの高等教育への進学率は四割ちょい(1999年)であることを考えると(この調査から進学率が劇的に上がったという事はなく、それ以前の進学率がすごく高かったということはないと仮定して)、学位をもっていないような人でさえこの雇用契約に反対しているわけです。

僕のいいたいことは、こういう事です。このCPEの問題に関しては、必ずしも利害が一致しないにもかかわらず、運動の動員が可能で、それによって一定の成果をうる事ができたという事です。このような事が日本において可能なのか、僕には疑問です。これは想像ですが、日本における運動はだいたいが利害が一致したものだけで行おうとする運動なのではないでしょうか、つまり集団の(たとえば利害関係などの)同質性を前提としているのではないか。そしてこの事がいわゆる運動が日本においてあまり実を結ばない所以なのではないでしょうか。

言い換えると、運動にはある種のダブルスタンダードが必要なのではないでしょうか。自分はこう考え、こう感じるけど、まあみんながこうだからいいか、とか、短期的にはこうした方が得だけど、長期的に考えるとこうしない方がいい、とか。このことはゲイ関係の問題についてもいえるのではないかなあと思いました。『ハッシュ』をかつてフランスで見たのですが、その中で確か片岡礼子が旦那は欲しくないけど子供が欲しいから種だけちょうだいと大塚寧々の旦那にいいます。するとそのパートナーの元男闘呼組の人が大塚寧々の旦那に、お前は絶対女性とはセックスできないんだから、そんなことはやめろ、といったと思います。それに対して大塚旦那は、「絶対なんていうな」とか怒鳴ったと思います。確かに自分はこれまで女性とやったりやろうと思ったことはないけど、そんなのわからないじゃないか、と。自分がずうっとホモセクシャルであり続けるかどうかわからないじゃないか、と。これは本当に真摯な考えだと思いました。自分も男性とセックスしたことないけど、好きな男性が現れたらしたくなるかもしれない。しかしそんなこといったら運動なんてできないわけです。だから、フランスでこの映画を見たとき、こういうのってフランス人に理解されるのだろうか、と考えたことがありました。だってフランスでは同性同士で結婚に準ずる契約を交わすことができるし(つまりその権利を獲得してきたわけだし)、(今はどうか知りませんが)いわゆるゴールデンタイムにゲイの方々に向けたセックスするときはコンドームをつけましょうとかいうCMが流れていたりするわけですから。でもたぶんフランス人でも「自分はゲイだと思うけどゲイじゃないかもしれない」と思っている人もいるのではないでしょうか。にもかかわらずゲイの権利拡張を訴えているのではないでしょうか。運動が成立する国では、こういったダブルスタンダードが機能しているのではないでしょうか。

そう考えると、id:chidarinnさんの女性のうつについて書いたものを見ると、日本って結構大変なのかなあとか思いました。もしフェミニズムが運動なら、こういったダブルスタンダードがないと動員するための同意が得られづらいということになり、なかなか難しいなあと思いました。これはid:idiot817さんやid:shojisatoさんがいっていたようにある事柄について語る人とその当事者とのあいだの問題が難しいというのではなくて、というか両者の間に隔たりがあるのは当然で、本来ならば(つまりid:chidarinnさんがそうすることによって社会のある側面に異議申し立てをし、それによって何らかの変化をもたらそうとするならば)、その隔たりにもかかわらず、両者の間に何らかの同意が作り出されなければいけないのに、それは困難なようだなあということです。

もちろん事をちゃんと考えるにはそもそもお互いがいうことが正しいかを検証しなければいけないのですが、お互いに正しい(あるいは政治的に有効である)という事もあり得るわけです。そのときにすくなくとも一方が面従腹背ではないけど、自分はこう思っているけどまあいいや、という気持ちにならなければ何か異議申し立てのようなものを団結してできないのではないでしょうか。だってそもそも運動する集団全員が同じ利害関係を共有しているという事なんてほとんど不可能でしょうから(そういう意味ではフェミニズムというのはそれが含む範囲というものがあまりにも多くて、非常に大変なのではないだろうか、というかそもそも運動なんてどうでもいいのだろうか?)。で、そういったダブルスタンダードをもてないという事はかかわっている個々人が強情とかそういうことではなくて(だってお互いに自分にとって重要であるだろうことを訴えているわけでしょうから)、何かそういう状態を条件づけている土壌みたいなものがあるのではないかなあと思いました。

でも「そういう土壌があるよね」と言っているだけでは、そして当事者の言っている事と自分の言っている事は関係ない、と開き直ってもだめで、女性のうつが何か社会的な事柄に対する抵抗としてある(ことが正しい)なら、そしてそこにある問題を解決することが意義あることならば、当事者にどうやってそれを納得させるかということが(そのためには場合によってはうつがある種の抵抗であると言わない必要が逆説的にあるかもしれません)、理論とは別に実践として絶対に必要で、そしてそのことによってはじめて「強者の理論」に「さよなら」できるのではないでしょうか。

恐怖と笑い

彼岸島』14巻まで読んだ。感受性豊かというか簡単にいうと恐がりなので、最初の方はちょっと読むのがつらかった。つらかったのはたぶん怖かったからだと思う。だけど明がなんか決意して仇を取るために強くなりたいと言い出した頃あたりからあんまり怖くなくなってきた。これはおそらく偶然じゃないだろうと思う。怖いってのは何かと考えるに、おそらく「よくわからないけど危険」ということなのではないだろうか。おそらく危険ということはあまり本質的ではなく、やはり「よくわからない」ということが問題なのだと思う。自分を取り囲む世界が、自分の認識に及ぶ範囲を超えている状況をおそらく「よくわからない」というのであり、そしてその状況に対して自覚的であるときおそらく怖いのではないだろうか。危険である、ということはこのような状況に自覚的であるための触媒であると考えられる。しかし「恐怖」が「謎」と結びついているとき、謎が明らかになるにつれてこの「よくわからなさ」が徐々に薄れていくだろう。というか謎とはこの「よくわからなさ」そのものなのかもしれない。しかしそれだけでは十分ではない。というのは、突き詰めて考えれば自分を取り囲む世界が自分の認識を超えているという状態はいわば普通の状態であり、おそらくそうでない人はいないからだ。そうすると問題なのは世界と自分の認識がどうであるかということよりも、そういう状況を自分がどう判断して、どう行動するかということになる。明はそのとき「復讐する」と決意するわけだが、その瞬間視界は開ける。もう迷う必要はない。世界がいかに自分の能力を凌駕していようが、もはや問題ではない。もう目指すところは決まっているからだ。


ところで、この世界と自分の認識とのギャップというのは笑いの要素でもあるまいかと思う。おそらく違うのは恐怖を感じるとき上に書いたようにそのギャップに対して自覚的でなければならないけど、笑いを喚起するためにはその自覚はむしろ不要であるということじゃないだろうか。伊藤潤二の『うずまき』とかがちょっと笑えるのはこの点にあるのではないか。あんまり怖いんでホラー系のマンガあんまり読んでませんが。


こういうことを考えるといつも思い出すのが『コージ苑』の中にあった、「誰もいない夜道を一人で歩いていて、幽霊が出てくると笑えるけど、田川陽介が出てくると怖い」っていうのを思い出す。まあ上で書いたことを微妙に違う気がするのだが、でも笑いと恐怖っていのはかなり近い感情なのではないかという気がする。