こちら:
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20060824/p1

例のネコ殺しの話というよりも、id:shinimaiさんのエントリが興味深かったのでそれについて。倫理学とかについて全く知識がないので、単純に疑問に思ったことがあるので、とりあえず書いてみる。

ここでは坂東眞砂子にたいするあり得る批判を二点にまとめているが、どうやら重要っぽいのは第一点目、つまり、

現代の功利主義的道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。

というところでしょう。まず何よりもわからないのは、例の日経の記事からどうしてこういう批判が導きだされるのかが実はちょっとよくわからない。ネコを殺すこととネコを殺したと書くことは違うのではないかというのがまず感じた印象です。僕はあの記事を読んだとき、ああこれはたたかれるだろうなあと思いましたが(というかたたかれているという事実を知ったあとに読んだので当たり前なんですが)正直言ってけしからんとはあまり思いませんでした。それは何かを行うこととそれを報告することは別のことだからだと思っているからです。つまりあの記事からそもそもid:shinimaiさんが示した批判を提起しうるのかというのがまずある疑問。

それで次に思うのは、何が悪いのか、ということ。つまり、ネコを殺すのが悪い、ということと、ネコを殺したと書くのが悪いということは違うだろうということ。これは読み手の想像力の問題になるのでしょうが、少なくとも僕はあの記事を読んで彼女はネコを殺したんだと、「不快感を感じるまでリアルに」想像できませんでした。たぶん実際に日経の紙面でコラムとして読むとまた違うのかもしれません。だから、そう書くのが悪いというのなら何となくわかる。でもたぶん多くの人が「ネコを殺しちゃいかん」と思ってブログなどでそう書いているような気がするんですね。ネコ殺しを表明すること自体が問題だ、と言ったのはきっこの日記のきっこぐらいなのではないでしょうか。いや、べつにたいしてチェックしているわけじゃないので、ほかにもいるでしょうが、id:shinimaiさんは少なくともそう考えてないですよね。まあ文学畑出身特有のへ理屈なのかもしれませんが、あの記事からネコを殺すことへの倫理的な批判ができるとすれば、それはPhilippe Lejeune的な自伝契約があらかじめなければいけないのではないでしょうか。まあもちろん日経新聞のコラムであるということは既にそういう契約をしたということなのかもしれませんが。まあ新聞ということを考えれば社会的にはそういう契約をしたということになるんだろうな。

ということで、ネコ殺しの善し悪しに関してはあまり興味がないのですが、それを表明することがどうなのかということについてはちょっと気になります。で、そのへんに関してid:shinimaiさんはどう考えているのかなというのがもうひとつ思ったこと。たぶんネコを殺したことを書くことが無条件で悪いということは言えないような気がするんです。いろいろな文脈があるわけだし。言い方をかえれば功利計算が異なってくるということになるのでしょうか。ちょっと考えられるのは、こういうように書くことがネコ殺しなりひいては殺人を教唆することになるからいかん、ということはできるのかもしれないなとは思います。もしそうだとしたら、功利主義的にどう説明するのでしょうか。

で、書きながら思ったのですが、倫理学ってアプリオリな善(善のアプリオリ?)を問う学問じゃないかなあという印象があるのですが、教唆ということはそういう観点からちょっとわからないのではないかなあという気がするんです。教唆って結果としての出来事がまずなければいけなくて、そこから遡及的にああ教唆があったんだとしかいえないのではないかと思うからです。つまり、このように事後的な要素が重要な場合に功利計算ってできるのでしょうか。

ああ、あとそういうのを読むだけで不快だから書くべきではない、という考え方もあるのか。でもその場合本当に当該のコラムの筆者が悪いのかということにならないのだろうか。つまり、書いた本人よりも、ネットで焚き付けて広めた人の方が悪いということにはならないのだろうか。

いずれにせよ、(ネコ殺しという事実は別にして)ネコ殺しについて書くな、という考えにはちょっと違和感を感じる。もちろんそれが悪い「影響」を及ぼす場合があるだろう。だけどそれはどうやって説明するんだろう。なんかまとまりがありませんが、思ったことでした。