何か今まで書いてきたことと全然違うことを書きますが、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060729/p1にある「女性のうつ」についての議論を読んでちょっと思った事を…。まあ議論の内容とはあんまり関係ない事かもしれませんが。

全然関係ない話ですが、フランスで何ヶ月か前にCPEという雇用契約の施行に関して大規模なデモがあり、大統領がこれに関する法律を公布したにもかかわらず、このデモのためそれが取り消しになってしまいました。フランスに住んでいて、日本人としてこの出来事はいささかショックでした。というのは、おそらくこれほどの動員は日本では不可能ではないかと思われたからです。この契約は、失業対策として、入社して何年かはいわゆる「お試し期間」としてその社員を雇用側が自由にクビにできるというものでした。何でこれが失業対策かというと、フランスはいったん就職すると雇用側としてはやめさせることがかなり難しく、そのために新たな雇用を作り出すことが難しいからです。そのためお試し期間があればいろんな人をその期間雇用することができ、いろんな人に門戸が開かれるということらしいです。この「いろんな人」とは特に学位をもっていないような人、書類審査(がもしあれば)で真っ先に落とされてしまうような人で、そのような人たちにもチャンスが与えられるということで、失業対策になるだろうということみたいです。ただしこのことは雇用の流動性に繋がる、これがこの雇用契約に反対している人たちの主張でした。しかしこのことは前述の「いろんな人」から見たら、要は流動的になることで既得権益が失われるにすぎず、結局は学歴が高い人がそれによるメリットを享受したいだけだろ、という運動のある種のうさんくささがあるわけです。実は僕はテレビなどで事の顛末を見ながらそのように考えたこともあります。しかしテレビなどで発表された世論調査によると、六割だか七割だかがこの雇用契約に反対しています。http://www.mext.go.jp/b_menu//houdou/16/01/04011901.htmによればフランスの高等教育への進学率は四割ちょい(1999年)であることを考えると(この調査から進学率が劇的に上がったという事はなく、それ以前の進学率がすごく高かったということはないと仮定して)、学位をもっていないような人でさえこの雇用契約に反対しているわけです。

僕のいいたいことは、こういう事です。このCPEの問題に関しては、必ずしも利害が一致しないにもかかわらず、運動の動員が可能で、それによって一定の成果をうる事ができたという事です。このような事が日本において可能なのか、僕には疑問です。これは想像ですが、日本における運動はだいたいが利害が一致したものだけで行おうとする運動なのではないでしょうか、つまり集団の(たとえば利害関係などの)同質性を前提としているのではないか。そしてこの事がいわゆる運動が日本においてあまり実を結ばない所以なのではないでしょうか。

言い換えると、運動にはある種のダブルスタンダードが必要なのではないでしょうか。自分はこう考え、こう感じるけど、まあみんながこうだからいいか、とか、短期的にはこうした方が得だけど、長期的に考えるとこうしない方がいい、とか。このことはゲイ関係の問題についてもいえるのではないかなあと思いました。『ハッシュ』をかつてフランスで見たのですが、その中で確か片岡礼子が旦那は欲しくないけど子供が欲しいから種だけちょうだいと大塚寧々の旦那にいいます。するとそのパートナーの元男闘呼組の人が大塚寧々の旦那に、お前は絶対女性とはセックスできないんだから、そんなことはやめろ、といったと思います。それに対して大塚旦那は、「絶対なんていうな」とか怒鳴ったと思います。確かに自分はこれまで女性とやったりやろうと思ったことはないけど、そんなのわからないじゃないか、と。自分がずうっとホモセクシャルであり続けるかどうかわからないじゃないか、と。これは本当に真摯な考えだと思いました。自分も男性とセックスしたことないけど、好きな男性が現れたらしたくなるかもしれない。しかしそんなこといったら運動なんてできないわけです。だから、フランスでこの映画を見たとき、こういうのってフランス人に理解されるのだろうか、と考えたことがありました。だってフランスでは同性同士で結婚に準ずる契約を交わすことができるし(つまりその権利を獲得してきたわけだし)、(今はどうか知りませんが)いわゆるゴールデンタイムにゲイの方々に向けたセックスするときはコンドームをつけましょうとかいうCMが流れていたりするわけですから。でもたぶんフランス人でも「自分はゲイだと思うけどゲイじゃないかもしれない」と思っている人もいるのではないでしょうか。にもかかわらずゲイの権利拡張を訴えているのではないでしょうか。運動が成立する国では、こういったダブルスタンダードが機能しているのではないでしょうか。

そう考えると、id:chidarinnさんの女性のうつについて書いたものを見ると、日本って結構大変なのかなあとか思いました。もしフェミニズムが運動なら、こういったダブルスタンダードがないと動員するための同意が得られづらいということになり、なかなか難しいなあと思いました。これはid:idiot817さんやid:shojisatoさんがいっていたようにある事柄について語る人とその当事者とのあいだの問題が難しいというのではなくて、というか両者の間に隔たりがあるのは当然で、本来ならば(つまりid:chidarinnさんがそうすることによって社会のある側面に異議申し立てをし、それによって何らかの変化をもたらそうとするならば)、その隔たりにもかかわらず、両者の間に何らかの同意が作り出されなければいけないのに、それは困難なようだなあということです。

もちろん事をちゃんと考えるにはそもそもお互いがいうことが正しいかを検証しなければいけないのですが、お互いに正しい(あるいは政治的に有効である)という事もあり得るわけです。そのときにすくなくとも一方が面従腹背ではないけど、自分はこう思っているけどまあいいや、という気持ちにならなければ何か異議申し立てのようなものを団結してできないのではないでしょうか。だってそもそも運動する集団全員が同じ利害関係を共有しているという事なんてほとんど不可能でしょうから(そういう意味ではフェミニズムというのはそれが含む範囲というものがあまりにも多くて、非常に大変なのではないだろうか、というかそもそも運動なんてどうでもいいのだろうか?)。で、そういったダブルスタンダードをもてないという事はかかわっている個々人が強情とかそういうことではなくて(だってお互いに自分にとって重要であるだろうことを訴えているわけでしょうから)、何かそういう状態を条件づけている土壌みたいなものがあるのではないかなあと思いました。

でも「そういう土壌があるよね」と言っているだけでは、そして当事者の言っている事と自分の言っている事は関係ない、と開き直ってもだめで、女性のうつが何か社会的な事柄に対する抵抗としてある(ことが正しい)なら、そしてそこにある問題を解決することが意義あることならば、当事者にどうやってそれを納得させるかということが(そのためには場合によってはうつがある種の抵抗であると言わない必要が逆説的にあるかもしれません)、理論とは別に実践として絶対に必要で、そしてそのことによってはじめて「強者の理論」に「さよなら」できるのではないでしょうか。