はじめてトラックバック頂きました、ありがとうございます。なんか運動の動員のためのコンセンサスの問題からかなり離れちゃってます。すみません。

僕がid:chidarinnさんのブログを見たときに一番興味を引かれたのは、プロフィールのところなんですね。「さよなら、 強者の理論。」というところ。これを見たとき、まず第一に思ったことは、誰が強者で誰が弱者なんてどうやってわかるんだろうということでした。これは僕自身がそういうことをわかる必要がないもしかしたら強者の立場にいるからなのかな、という反省を与えてくれたわけです。まあいずれにしてもプロフィールにこうあるから、id:chidarinnさんはどうやって強者の理論と決別しているのかなということを中心に考えるわけです。僕は相手に対する想像力を持っていないので、もしかしたら「強者の理論」というものがどういうものなのかということについて以前語られていたかもしれませんが、それを読んでいないので、今回の一件のテクストを読みながら何がid:chidarinnさんにとって(そして僕にとって)なにが強者なのかということについて考えてみようとしました。僕が考えるのは、こういうことです。おそらくア・プリオリには強者の理論というものは、ない、同時にア・プリオリには強者というものもいない。理論が強者のものか弱者のものかというのは、それが(発話を含めたあらゆる行為としての)実践に移されたときにはじめて決まると思います。同様に誰でも強者になれるし弱者にもなれる。まあある意味当たり前なのかもしれませんが、強者とか弱者って微視的な関係性に表れるものなのだと思います。そして、おそらくこれはずっと前から言われているでしょうが、フェミニズム理論でさえ強者の理論になりうるでしょう。

今回の話はうつ病が問題になっているため、つまりその患者が問題になっているため、それについて語る人は容易に強者の理論をふるう人になってしまうだろうと思います。なぜかということを僕なりに考えるに、それは視線が違うからだと思います。患者は医者に何かを訴えます。したがって医者を見る。しかし医者は必ずしも患者を(診るけど)見る必要はない。それは自覚症状を考慮に入れる必要がない場合があるからです。今回の件についても視線の違いを感じました。すごく単純化すると(というのは関係性は多元的に決定されるでしょうから)id:farceurさんはid:chidarinnさんの「間違い」を指摘しました。だからid:farceurさんはid:chidarinnさんを見るでしょう。しかしid:chidarinnさんはもともとうつ病をもって社会を見たいのだから、id:farceurさんを見る必要はありません。これは当然のことであるばかりか、むしろ必要なことでしょう。さっきの医者のはなしにしても、もちろんそういう関係性を生み出す構造を問題化することにはもしかしたら意味があるのかもしれませんが、しかしそのことに対して個々の医者は全然悪くない。当たり前です。そんなこと言ったら医療なんかできません。こういった視線の違いはただあるだけです。しかしとはいえ、どちらかが強者に、どちらかが弱者になってしまうことは、それを両者が望んでいなくても、そしてそれを知らなくてもなってしまう。そしてしばしば、こういう関係に敏感であるのは弱者の方だと思います。

強者か弱者かという区別が微視的な関係性によるものならば、「もっとあなたのお話をきかせてください」とか「議論が必要」だとか言うのはそれを言う人と言われる人にとって等価な意味を持ちません。これに類することはフェミニストたちが最も敏感に感じ取ったことのひとつだと思います。問題なのは人は多くの場合知らないうちに強者になっていくということなのです。id:chidarinnさんならこう言うかもしれません。「誰もが反証可能な状態、誰もが理解できると言われている形で、一般的に「正しい」と思い込まれている科学的な論文を、つまり大量データに基づく数量的な研究や医学的生物学的な「客観的」「事実」をもとにして、自分のビジョンを構築、論文として提示す」るようなひとは知らないうちに誰かを抑圧する、と。僕は「強者の理論」と決別するためにはこの「知らないうちに」になるべく意識的でなければならなく、(少なくとも僕の理解では)誰もが潜在的に強者になりうる以上、なるべく意識的であろうとする意志が一番重要なのだと思います。そしてそのためには、自分の考えていることのへの忠実さよりも、自分の表現することの適切さを重視する必要があると思います。最も厄介なのはこの適切さはしばしば事後的に明らかになったりするということなのですが。しかしこの事後性ゆえに対話が必要なのでしょう。