Brigitte Aubert, La mort des bois

ブリジット・オベール森の死神』)


まず最初に言い訳がましいことからいきますと、僕は文学を学んでいるわけなんですが、ミステリーってほとんど読んだことなかったわけです。それには理由がありまして、ミステリーには前提として何かしらの「謎」がある、しかしその「謎」の自明性そのものを問うことはしない(当たり前ですが)。それって思考の怠慢なんじゃないかとか思っていたわけです。そのことに関して、ゴンブロヴィッチはいいこといった。『呪われた人たち』(仏語訳:Les envoûtés)でのことですが、要は「いろんな謎が我々のまわりにはある。しかしその謎を解明しないと我々は生きていけないというわけではない。人は謎にであったとき、笑って通り過ぎることもできる。」といったようなことを言うわけです。その通りだとおもった。つまり謎をめぐって物語が展開するということそのものにいってみればリアリティを感じることができなかった。その恣意性は何だよとか思ったわけです。その意味では『脳噛ネウロ』は明快で納得できるものだったような気がする。食料だから。これ以上ないと思った。まあそれはともかく、僕にとってのゴンブロヴィッチ的な真理があるにもかかわらず、やはり世の中にはミステリーは多いし、読んでみると結構面白かったりするので、今度は逆にその「謎」とかそういうものに引きつけるものは何なのかということに興味を持つようになる。とはいえ必ずしもその答えがいわゆるメタミステリー的なものの中にしかないということではないと思う。何しろミステリーに関する知識も教養もない。というわけでそこら辺に関して積み重ねていこう。マンガばっかり読んでいるより語学力はつくだろう。


で、オベールの『森の死神』だが、ううむ、ほとんど初めてミステリーを読むのにこれでいいのだろうか。何しろ主人公であり語り手は目が見えない、体のほとんどの部分が麻痺、喋れない、の三拍子。ミステリーの歴史の中でこういうのもありなんだろうが、最初にこれはどうか。まあでもミステリーにおける語りの問題とかを考えれば、この選択肢というのはかなりありだと思うので、さすがにこの人が初めて試したというわけではないだろうが(ほかにどういう作品があるのだろう?)、最初は戸惑った。外国語ということもあるし。

外国語ということでいえば、実際に記述したことが実は間違い(あるいは自分が目が見えないことを相手に利用されたケース)だったことが多く、そういうときに使う様態の変化について語学の勉強にはなった。

まあそういう素人目に真新しそうなところに素人だから惹かれてしまうのだが、たくさん読んでいる人にとってみるといろいろあらが見えるらしい。こちらなど。無理が多いとのこと。たしかに何でこのタイトルなの? っていうことに関しては説明はちょっと足りないかも。でも大筋、「ああそうか」とは思った。

謎と語り手あるいは主人公との関係、ということでいうと、僕自身はおおざっぱに二つに分けて考えている。つまり最初はその謎に対して非関与的だけどもだんだんかかわっていくというタイプ。そして最初からずうっと巻き込まれているタイプ。大雑把というか不正確ですらあるのだが、まあ最初のたたき台ということで。そういう意味でいうと、この『森の死神』の語り手は明らかに後者である。その意味でこの主人公をいわば特殊なケースの「安楽椅子探偵」とするのは妥当ではないような気がする。たぶん問題なのは推理する手法とかスタイルではなく、出来事に対する関与性だと思う。関与的であればあるほど、謎そのものを問うている場合じゃなくなる。当然文脈は違うが、ジャンプにありがちな戦闘マンガとその点は似ている。その戦闘がどれだけ意味不明であろうとも、敵が次々とやってきて戦わざるを得ないという緊急性が戦う者にあれば、「何この戦闘」とか問うひまはない。

ともあれ、この作家はほかの作品も読んでみたいな、とは思わせてくれた。一応いろんな作家を読んだ方がいいだろうから次はほかの作家を読むけど。